漢方診療六十年

 ~漢方薬飲んで八十年学んで六十年~   
          

        金匱会診療所理事長 山田光胤

                      

 2012.7.7   第34回漢方友の会懇会

 私はこの3月に身近な人たちの集まりで米寿のお祝いをしてもらいました。ということは88歳です、長生きしました。これは丈夫で長持ちしたのではないのです。子供の頃は7年あまり難病をして、初めの3年半は普通の病院にかかりましたが治りません。その間に順天堂(大学病院)に担ぎ込まれて、小児科の偉い先生に父が呼ばれたのです。後で聞いたところでは「もうだめです。死にます。手術しても死にますし、しなくても死にます。どうしますか。」と言われたそうです。それでどうせ死ぬなら手術して痛い思いをするより静かにしてやろうということで、病室に引き取って一晩、必死に看病してくれました。私は翌日の朝にはけろっと目を覚まして、昼ごろ小児科の偉い先生が回診に来て、「これは昨夜の坊やか、違うだろう。」と言うのです。そのときは何を言っているのかと思ったのですが、後で聞いたところではそういうわけでした。もう死んでいると思っていたのですね。それが生きていたので、医者の方がびっくりしたらしいです。これは父の看病と、私も一緒になってお天道様に一生懸命拝んでいたからです。

 戦争中も軍隊の学校に行っていたのですが、従兄弟は三人が戦場に行って、三人とも帰って来ないのです。私一人が生き残ってしまった。それで医者になってお返ししようと思いました。当時も杉並区の阿佐ヶ谷に住んでおり、そこから一番近い医者の学校を探して、新宿の東京医専に五年いました。戦争の翌年で食べるものもないし、電車がすごく混んでいて、窓はガラスが皆割れて、座席は板張りでした。そういう時代だったので遠くの学校に通うのは大変だと思い、一番近い新宿の学校に入学しました。

 子供のとき死に損なって、父親が一生懸命探してくれたのが漢方の大塚敬節先生でした。大塚先生にかかり始めてから、あまりお腹が痛くならなくなりました。お腹が痛い間は小建中湯を飲まされました。味も覚えていますが、小建中湯は煎じ薬を作るのに膠飴を入れるのですが、今は乾燥したキャラメルのようですが、当時はそれはなくて母がお菓子屋から水飴を探してきて、煎じた液にそれを溶かしているのを見ました。少し甘みがあって喜んで飲みました。そのうちにお腹が痛くならなくなりました。ほかにも味で覚えているのは小柴胡湯です。これはお腹に炎症があって使ったのだと思いますが、今でも味で覚えています。

 大塚敬節先生の漢方薬を三年くらい飲んで健康になり、旧制中学には一日も休まずに行きました。卒業の前に陸軍士官学校と海軍兵学校の入学試験がありました。当時、戦争がどんどん激しくなっており、どちらかを受けなければならないと勧められましたが、海軍兵学校は広島にあって遠いのです。陸軍士官学校が近くにあったので受験したら合格しました。そこに三年間在学して、とうとう戦場に行かずに済んでしまいました。その間に親しい従兄弟三人が戦争に行って、誰も帰って来ませんでした。

 それで医者になることにしました。入学して数日後に大塚敬節先生のお宅に報告に行きましたら、先生はたいへんに喜んでくださり、あんなに嬉しそうな顔を見たのは生涯ありませんでした。その帰りがけに「照胤君(光胤先生の本名)、これをあげるよ。」と言って漢方の古医書をくださったのです。それが『傷寒論』で、日本の漢方の、古方のバイブルでした。それで大塚先生の弟子になってしまったのです。医学の勉強も面白くて、東京医大を一日も休みませんでした。そのかたわら漢方の書物も読みました。分からないときは大塚先生の所に行って教えていただきました。こうして現代医学と漢方医学の両方を勉強しながら医者になりました。

 入学したのが昭和21年、戦争の翌年で、医者になったのが昭和27年で、学校は五年間かかり、一年間のインターンをやって国家試験を受けました。その間、一度も落第せずに済みました。医者になった当時大塚敬節先生が体調を崩しました。戦中・戦後と無理をなさって、戦時中に住んでいた新宿の自宅はアメリカ軍の空襲で丸焼けになり、無一文になっていました。それを助ける人があって、杉並区の片田舎にある借家に住んでいました。そうしたこともあってすっかり体調を崩してしまい、やっと診療していました。それで私が昭和28年正月から助手をすることにしました。昭和30年の大晦日まで、三年間、大塚先生の助手をして、先生の診察の手助け、漢方薬の調剤、漢方薬の買入れ一切をやりました。おかげで大塚先生の漢方の使い方を覚えたし、漢方薬の調剤から買入れまでできるようになりました。昭和30年の末頃、大塚先生が今の新宿区、四ツ谷に新居をつくられ、住宅と診療所ができたので失礼をすることにしました。他人を雇えるほどになって、薬剤師、家庭内のお手伝いさんも他人に任せることができたので、私は大学病院に戻りました。

 それまで、折をみては東京鉄道病院の理療課とか、東京医科歯科大学の精神科とかに行って研修をしていたのですが、専ら研修をすることにしました。昭和32年の秋頃、大塚敬節先生が中将湯という漢方の売薬を出していた、津村順天堂という漢方薬会社の社長 津村重舎さんに協力して、この診療所の元になる中将湯ビル診療所をつくられました。漢方の診療所というので漢方診療所という名前をつけようとしたら、どうしても開業が許されません。そこで中将湯という名前を使って中将湯診療所にしようとしたら、これも漢方薬の名前だからだめだというので、苦肉の策として中将湯ビル診療所という名前にしました。

 診療所の施設とか設備は津村重舎さんが費用を出して作りました。この費用は診療所の収益から返しました。診療の医師団は大塚敬節先生が集めました。その時に賛同して一緒に診察を引受けてくださった先生が大塚先生の他に五人いました。一人は藤平健先生です。藤平先生は千葉大学の漢方診療を作られた方で、当時は千葉医大の眼科にいました。それと藤平先生に協力していた伊藤清夫先生が一緒に来てくれました。もう一人、大塚敬節先生の一番弟子の相見三郎先生が来てくれました。相見先生は慶応大学の、診療は外科でしたが学問は病理学です。そして東京都に監察医務院という役所がありますが、これは東京都内で変死した人を病理解剖する施設で、その監察医をしていた人です。もう一人、吉村得二先生という年輩の先生を、大塚先生がお願いして山口県から来ていただきました。この方は世の中にあまり知られていませんが、隠れた名医として有名だった人です。そして、その中に若輩の私を入れてくれたのです。

始めの頃は、先生方は有名ですから早い時期から患者さんが来ましたが、私は名前も何も知られていないので患者さんが来ません。それで主に検査をしていました。レントゲンを操作したり、臨床検査をしたりしていました。何年か経つうちに、患者さんが来てくれるようになって、一人前になりました。診療が始まって二年目の昭和34年には、日本東洋医学会という学会の理事にされました。

大塚敬節先生は80歳で亡くなる日まで診療をしていました。中将湯ビル診療所は日本で初めてできた漢方の診療所です。これを作った後、昭和47年頃に北里研究所に東医研(東洋医学総合研究所)という漢方の研究所を作って初代所長になり、週に12回中将湯ビル診療所に来て、あとは北里研究所に行っていました。ある日、北里研究所に行こうとしていた朝に脳溢血を起こして亡くなりました。

大塚先生は子年で、私も子年です。二回り下の子年だから24歳若いわけです。大塚先生が80歳で亡くなられたとき私は56歳くらいでしたが、先生が急に亡くなったので、しばらくは所長の業務を代行しました。患者さんも増えて、半日ずつ診療を続けたのですが、30人以上の患者さんを診療しました。それが昭和61年頃に、中将湯ビルを建て替えるから出ていってくれというのです。しょうがないので近くの貸しビルに引っ越しましたが、後で聞くと同様に引っ越した他の会社は引っ越し料をもらっていったそうです。私たちはそんなことは知らないので、自分の費用で引っ越しました。最初の所が狭かったので、12年後には今の所に移り、今日に至っています。

 この中将湯ビル診療所から今の金匱会診療所になるまでに、薬の使い方や病人の診かたを教わりました。カゼをひいたときにまず飲む薬で、葛根湯をご存じだと思います。これは寒気がして、熱気が出て、首や肩の凝りがひどい時に飲む薬です。この時に、まだノドは痛くならないけれども、何となくイガイガして、乾燥したような嫌な感じがすることがあります。その時に、葛根湯に蒼朮を加えると、このイガイガが直ぐに楽になります。これは自分でも経験があります。これが葛根湯加朮で、朮は蒼朮を使います。こういう使い方は吉村得二先生から教わりました。吉村得二先生は年輩の方で、それまで山口県で開業していました。昔の生き残りの漢方医から漢方を教わったという、すごい方で、この先生の秘伝です。蒼朮は白っぽい脂が出て、ちょっと目にはカビが生えたように見えますが、この白っぽい脂が出るのが良い蒼朮です。私が大塚敬節先生の助手をしていた頃は、こんなに良い生薬はありませんでした。少しずつ中国から輸入するようになって、大部分は国産品を使っていました。当時の蒼朮はオケラという植物の根で、蒼朮に似た白朮という薬もありますが、蒼朮も白朮もオケラから作っていました。そのうちに昭和2930年頃に、こういう蒼朮が中国から来たといって、生薬問屋がやっと届けてくれるようになりました。これを古立蒼朮といって、大塚先生もすごく喜びました。今は蒼朮と白朮は基原植物が違いますが、昔は蒼朮も白朮も同じ植物を使っていました。吉村得二先生が使ったのはオケラの方だと思います。

それから防已黄耆湯という処方薬がありますが、これは『傷寒論』に出てくる古い薬で、だいたい汗かきに使う薬です。そして変形性膝関節症という、老人の老化現象に使います。これは年をとるとなる人が多いのですが、膝が痛くなります。いろいろなことをやっても鎮痛剤しかないのです。でも鎮痛剤を長く使っていると胃が悪くなったり、出血しやすくなったりと、副作用を伴います。そのときに防已黄耆湯を飲むと痛みが楽になります。変形性膝関節炎というのは、若い頃は関節の周りがつるつるしているけれども、年をとると関節の周りがギザギザになります。そうすると痛みが出てきます。それが防已黄耆湯を飲むと膜ができるのかどうか判りませんが、痛くなくなります。こういう薬の使い方を大塚敬節先生が発見したのです。

漢方医も今は増えて、大学でもやるでしょう。ですが、こういう使い方をしている大学はないでしょうね。大塚先生の弟子の偉い先生がいるところは、使うかもしれません。ある時、先生が壮年の頃、奥様のお母さんが健在だった頃に、膝が痛くて困っていたのです。大塚先生は土佐の、高知の出身ですからお母さんは高知に住んでいます。先生がお母さんを東京に呼んで防已黄耆湯を飲んでもらったそうです。ところが他の患者さんは治るのに、お母さんはちっとも良くならないので怒られたそうです。先生は困ってしまい、これに麻黄を加えました。麻黄は体が弱い人、胃が弱い人には使えないのです。お母さんは、体が強い人だったのでしょう。体格は小さくても、体質的に強かったのでしょう。麻黄を加えた防已黄耆湯を飲んでもらったら、数日で痛みが治まって故郷に帰ったということです。

私はエキス製剤でも治療することがあります。エキス製剤を使うときは、防已黄耆湯と越婢加朮湯を一緒に飲んでもらうと、越婢加朮湯には麻黄が入っているので実証の人は楽になります。ところが虚証で体質的に弱い人は、防已黄耆湯だけでは効果が弱いことがあります。そういうときは桂枝加朮附湯を一緒に使うと弱い人にも薬が効くようになります。これは私の工夫です。

先ほど話しましたが、私は、戦争中に陸軍の学校にいました。当時の同級生で、大きな病院の外科部長になった人がいます。元気な人で、一緒にゴルフに行ったこともあります。それが定年になって引退してしばらくしたら歩けなくなってしまいました。杖をついて、やっと歩いているのです。どうしたのか聞くと「腰が痛い、足が痛い。」ということで、股関節が悪くなったのを、医者なのに自分では治せないのです。それで防已黄耆湯に越婢加朮湯を合わせたエキス剤を作って飲ませたら、杖はつくけれども平気で歩くようになりました。年寄りの腰の痛みは、主に背骨の、脊柱の変形です。これにも防已黄耆湯が効きます。

大塚先生に教わった処方の使い方に柴胡加竜骨牡蛎湯合半夏厚朴湯という、二つの処方を合わせた使い方があります。これは動悸がしたり、精神不安を伴ったりするときに良く効きます。私もよく使いますが、これを教わったのは学生の頃です。私の旧制中学の同級生で、卒業後すぐに歯科の学校に入って歯科医になった、親しい同級生がいました。埼玉県の奥の方に住んでいたのですが、あるとき彼の母親から「息子が吐血した、どうしましょう。」という電話がきました。私も医学生の頃で困ってしまい、翌日、直ぐに大塚敬節先生の家に行って相談しました。そうしたら往診に行ってくれるということで、次の日曜日に埼玉県の奥まで一緒に行ってくれたのです。先生がどうやって診察したのか、学生の頃なのでよく判らなかったのですが、帰ってきてから薬を送ってあげよう、ということで作ってくれたのが柴胡加竜骨牡蛎湯合半夏厚朴湯です。

柴胡加竜骨牡蛎湯は、いってみれば心身症、動悸がしたり、精神不安が起きたときの薬です。半夏厚朴湯は気持ちがはっきりしない、うっとうしいときに使う薬です。それから柴胡加竜骨牡蛎湯は、必ず肋骨の下に硬いところがあって、押さえると痛い腹証があります。これが胸脇苦満で、このときに使う薬です。それで大塚先生に胸脇苦満があったのですかと尋ねると「あった」という返事です。何で半夏厚朴湯も使ったのかと思って聞くと「ストレスがあるだろう」ということでした。私もそばで見ていたのですが、先生は聞き出してもいませんでした。脈を診て、お腹に触っただけです。そうなのかなと思っていたら23ヶ月ですっかり元気になって、また歯医者を始めたということでした。その時になって、友人のお母さんから、その時に強いストレスがあったことを聞いたのです。大塚先生は、そういうことを聞き出さないで脈を診て、お腹を触って、ストレスがあることが判って、こういう薬を使ったのです。私のいろいろ使う秘伝の薬のいくつかの中に、これがあるのです。

信州の諏訪のそばで針灸師をやっている患者さんがいますが、この人は30年~40年にわたって、慢性腎炎の薬を飲んでいるのです。この人も、一時は動悸がして、不整脈が出て、具合が悪いといったときに、「針灸師を始めたばかりでストレスだな」と思って、この薬を使いました。そうしたらまもなく元気になりました。今は腎炎の薬だけを飲んでいます。この人は昔、諏訪のそばで寒天作りをやっていました。寒天作りというのは寒い冬の労働で、それで腎炎になったらしいのです。だから東京に来て、一時はタンパク尿が消えるくらいになったのですが、中年になってからの病気なので完全には消えないで、そのまま戻ってはいますが、すっかり元気になっています。

この人は「もう寒天作りは無理だけれども、何か仕事をしなければいけない。どうしましょう。」とか、「仕事を変えるなら少しは社会のためになる仕事をしたい。」というのです。でも「この歳で医者になるのは無理だな、どうしましょう。」というので、「鍼灸師になったら」と言ったら、本当に鍼灸師になりました。それで諏訪に帰って鍼灸師をやった人です。鍼灸師になったときも北里研究所に頼んで研修させてもらいました。北里研究所は医者しか入れないのですが、無理に頼んでやってもらいました。その人にもこの薬を使っていました。