中将湯ビル診療所時代


 
日本漢方の殿堂・金匱会診療所は、その名にふさわしく、日本の玄関・東京駅からものの二、三分のところに位置する。しかし、はじめから当所にあったわけではない。
 そもそも金匱会診療所は日本で初めての漢方専門施設として、1957年(昭和32年)、当時の津村順天堂社長・津村重舎氏が現代日本漢方の祖として名高い大塚敬節氏の指導を受けて設立したものである。当時は中将湯ビルの中にあり、中将湯ビル診療所と称していた。
 その年の暮れに医療法人の認可を得て、翌年2月には、医療法人・社団金匱会・中将湯ビル診療所と改称した。それまで漢方で治療する医師は個人の開業医に限られていたが、ここに日本初の法人組織の漢方専門施設が誕生したのである。なお、金匱会の金匱とは、重要な漢方古典『金匱要略』にちなんでつけられている。
 1957年と言えば、まだ漢方薬が健康保険の薬価基準に収載される約20年も前で、漢方治療は、現在のような市民権を得てはいなかった。それだからこそ、正統派の日本漢方の復興と普及を目指して設立されたのであったが、さらに当診療所は、医師に日本漢方の伝統的手技を修習させることも目的としていた。つまり、優秀な漢方治療を行える医師を育てる教育機関としての役割も兼ねていたのである。



 設立当初、診療にあたっていたメンバーをみると、大塚敬節所長をはじめ、藤平健氏、伊藤清夫氏、相見三郎氏、かくれた名医といわれた吉村得二氏、山田光胤氏と日本漢方を代表する方々が並ぶ。
 今さら解説を加えるまでもないが、藤平健氏は千葉で開業するかたわら、千葉大学に東洋医学研究会を結成し、多くの漢方研究医を育てている。伊藤清夫氏も千葉で藤平健氏とともに千葉東洋医学界を支えていた重鎮である。
 相見三郎氏は漢方心身医学の第一人者として有名だが、一方、東京都の監察医でもあり、病理学に造詣が深かった。所長である山田光胤氏は言うまでもないが、義父は大塚敬節氏で、現代の日本漢方の第一人者である。日本で初めての漢方専門の診療機関には、このようなきら星のごとき医師たちが集まっていたのであった。
 残念ながら、初代のメンバーの多くの方がすでに故人となられている。山田光胤所長に当時の思い出を語ってもらうと
 「当時は漢方という名前を表に出すのは保健所で認められていなくて、名称だけでも大変だったのですよ。中将湯も薬の名前だからだめといわれたのですが、中将湯ビルという名前のビルだからと押し切ったのです。それでも敬節先生は“漢方医学研究会”という立派なプラスチックの看板をつくって表にかかげていたら、それを保健所の人がみつけて、それもだめという。でも、とにかく漢方ということを知ってもらいたくて、窓を開け放して漢方薬を煎じて、においでわかってもらおうなどといろいろ努力しましたね(笑)」
 当時の笑い話として伝えられているところで、お風呂の用具を持って入ってきた人もいたという。中将湯とあるので、銭湯と間違えたらしい。
 患者数もはじめはそれほど多くなくがまんの日々が続いたが、十年たつと次第に患者が集まるようになった。それとともに、診療に当たる医師も増えていった。



 1972年(昭和47年)に中将湯ビル診療所は開所15周年を迎えた。当時、診療に携わる医師は先のメンバーに加えて、漢方薬を飲んで100歳まで診療を続けられた小出弥生氏、大塚恭男氏、寺師睦宗氏、藤井美樹氏、矢数圭道氏、室賀昭三氏などがいた。
 当診療所は日本漢方の殿堂として名高いが、日本漢方とは何だろう。漢方は古く中国から伝えられた医学ではあるが、漢方は伝来以後、日本で再度、独自の発達を遂げた。つまり、日本の気候・風土、日本人の体質にあった漢方医学ができあがったのであった。
 日本漢方の大きな流れとしては『傷寒論』に基づく医療を行う古方派と、曲直瀬道三の流れをくみ、李朱医学を簡略化した後世派があるが、日本漢方は古方と後世方を有機的に統合した総合的医療といえる。中国の伝統医学である中医学と比較すると、最小の薬剤で最大の効果が発揮できる日本人に最もふさわしい医療といえよう。
 さて、漢方が市民権を得るとともに、訪れる患者さんたちが増え続けていた中将湯ビル診療所は、1986年(昭和61年)にビルの改築とともに移転せざるを得なくなった。一時は八重洲仲通りに仮移転したが、1988年(昭和63年)に現在の八重洲一丁目ビルに新設し、名称を金匱会診療所と改めた。
 そして、1980年(昭和55年)に創立者である大塚敬節所長が亡くなられた以後、代理所長をつとめていた山田光胤氏が正式に所長として就任した。



金匱会診療所の現在


 
現在、金匱会診療所では山田所長を初めとして十一名の医師が診察にあたっている。メンバーは日本東洋医学会の重鎮ばかりで、会長、会頭をつとめた経験のある人が五人もいる。それは山田光胤氏、大塚恭男氏、藤井美樹氏、室賀昭三氏、松田邦夫氏である。その他の医師たちも理事などをつとめ、すべて大塚敬節氏、矢数道明氏の弟子か孫弟子にあたる。
 これだけのメンバーがそろう漢方医療機関は、日本広しといえどもほかには存在しない。
 金匱会診療所では日本漢方による治療を行っているが、そのよさを最大限に発揮するために、創設時から一貫して煎じ薬を主とし、漢方薬が健康保険の対象となった以後も自由診療を行い、保険は扱っていない。
 その理由は以下の如くである。
 当診療所には、どこの病院にかかっても思わしくない、難しい疾患を抱えている患者さんが多く来院する。まさに全国津々浦々から、そのような患者さんが来院する。難治の疾患を治療するのは、幅広く生薬を選択しなくてはならないが、まだ保険で認められていない生薬もある。保険で治療すると処方が狭められてしまい、治る疾患も治らないおそれがあるのだ。
 また、保険では生薬の価格が決められているため、より品質の高い生薬を求めることができないことが多い。そのため、できるかぎり安全で品質の優れた生薬を扱うには、自由診療以外にないのである。



 とは言っても、薬代は1日700円前後で、煎じ薬としては決して高いわけではない。 漢方薬の効果は大変高いが、それは漢方的診断である証にあった漢方薬が処方されてこそである。山田所長はこんな患者さんに出会ったことがあるという。
 「その方は車イスで入って来られたので、脊髄損傷の患者さんかと思いましたら、ひどいアトピー性皮膚炎で歩けなくなっていたんですね。ある有名な中医学の先生に何ヶ月も診てもらっていたのですが、なかなか改善しないので何とか治らないものかと訪れた方でした。そこで腹診、脈診などで証を決定して、漢方薬を処方したところ、半年でよくなって、会社に復帰できたのです」
 このような難治性の疾患の場合は、一人一人にあった証を決定し、できあいのエキス剤や中成薬ではなく、高品質の生薬を用いて煎じ薬をつくり、服用しなければ改善しない場合が多い。
 ただし、煎じ薬の場合は、生薬の善し悪しによって、効果は半減したり、増大したりする。そのため、金匱会診療所では薬剤部を設けて、極力日本産で無農薬のものなど、選りすぐりの生薬を常に確保するために尽力している。現在は小根山隆祥氏と針ヶ谷哲也氏がその任に当たっており、日夜研鑽をつんでいる。
 薬剤部では良質の生薬の確保のほか、診察前に、誤解を生じさせないために、漢方薬の特徴や漢方診療の特殊性などを患者さんたちに説明する役割も担っている。そして、診療後は漢方薬の煎じ方や服用の仕方など、初めての人にもわかりやすいように指導している。その間、患者さんからさまざまな悩みを聞かされることもある。それが診察に役立つ情報の場合は、担当医に伝えるなど、患者さんと医師をつなぐ役目を果たすことが多い。小根山氏は「長い患者さんとは家族のようなつきあいと言ってもいいかもしれません」という。



 ここ金匱会診療所のもう一つの特徴といえば、このような長いつきあいの患者さんたちが中心となってつくった「漢方友の会」が存在することだろう。会長は薬学博士で日本大学名誉教授の滝戸道夫氏。年に2回セミナーを行っており、1999年からは薬用植物園などを訪ねる植物観察会も行っている。「漢方友の会」の会員は50歳代、60歳代の女性が多く、こうした催しを通して、患者さんとスタッフの信頼関係が深まっているという。 会員たちにとっては、病気について知識を深めたり、自然に触れるいい機会となり、慢性病をかかえている患者さんたちも医師と一緒の見学会なので安心して参加できるようだ。

 当診療所設立のもうひとつの目的、漢方研究医の教育機関としての役割も十分果たされており、岡山の岡利幸医博をはじめとする多くの著名な漢方医を輩出していることはよく知られている。漢方の臨床を名医の治療を実際に見学しながら学べるこの研修医制度は現在も続けられているが、一度に引き受けられる人数は限られる。
 ともあれ、日本漢方の最高の医師たちが一堂に会し、最良の生薬を使用した漢方薬を処方してもらえる金匱会診療所は、日本漢方の殿堂と呼ぶにふさわしい診療所である。


(月刊漢方療法2005年5月号・6月号の掲載記事)